まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

反知性主義について

知性が足りなさそうな文体だけど、これでいく、みたいなことを思ったので、ついでに少しだけメモしておく。(にっきだから)

反知性主義」という言葉が流行ってたので、気にしていたけど、いったいこの言葉は誰の何を、どんなイズムを指しているのか、わかるようでわからない。たとえばわがくにの首相が「反知性主義」だと言うとき、そこには「反・知性主義」と「反知性・主義」とが混在している気がするが、首相は自分で「反知性・主義」だとは思っていないだろうけど「反・知性主義」だとは思っているかもしれない、とか。だから首相のインテリジェンスを問うてみてもそれを問うあなたは誰ですか?知性主義の方ではございませんか?ということで即リジェクトされて届かない。むしろ知性の担い手とは誰(であるべき)か?知性主義の方々の手元からその主導権を奪っておこう、ということで、首相には知性がないねって言って笑ってるのは一部の知性主義の方々だけで、もしかしたら本気で首相に知性はあると思ってる人もいるかもしれないし、少なくとも、首相に知性があるかどうかは別にして知性主義の方々は気に入らないといった「反・知性主義」はけっこう浸透しているのではないか。だって私もすぐに知識の羅列でもって人を見下げてくる人たち嫌いだもんねー、などと思うのであった。(すごい金井美恵子的な文章をごちそうさま)

著名な学者・大学人たちが今回立ち上がって動いたというのは、安保の問題がじつは知性の所在についての危機なんだということを察知したからだと思うしそれはその通りだと思う、だからトップの方々はハードスケジュールの中で「知性」を決して手放さなかったと思っているしそれを見倣いたい、だけど組織が大きくなると発言も不規則になり大声が通るようになる、そんな中で「知性」をつかわない「知性主義」をふりかざすおっさんらが出てきて、たんなる運動論になっていくのが、ああまたかって感じでさみしい。

暴力の連鎖を避けるために、暴力の行使を抑制する努力は不断に必要だと思うし、そのために知性は不可欠だと思うのだけど、ときどき知性そのものが暴力として作用するということを、私たち知性を欲しているひとたちは、知性を欲していない(ようにみえる)ひとたちと同じく、真剣に捉えておかなければいけないと思う。

ところで、知性主義に悪いヤツがいるのか、知性主義を詐称するやつがいるといえばいいのか、わからないが、「勉強が足りないですね」「基本書を読んでから来てくださいね」っていうのは、知性をカサにきた暴言だと思ってて、ひじょうに嫌いである。一方ので、これらについて私もいろいろ本を読みましたが、って振りかざすのも好きではない、場合がある。勉強って本当にどう評価するか難しい、うわの空で漢字練習を10回繰り返しても覚えられないのと同じで、読み方によっては、何冊読んだってムダなんだよねって時がある。ということでこれは、教育とか学習とかの問題と直結するのであった。

ふさわしい文体へ

思い起こせば私がネットで書き始めたのはまだ20世紀でしたよ。
その頃は自分のHPを持ったりネット上に自分の文章をさらしたりするのはまだまだ多くなかったので、誰に向けているわけでもないただよう文章であっても、時々誰かのところに漂着して、言葉のやりとりとか、しましたよ。

リアルを生きている方々には、自己顕示欲が強いんだねとか冷笑されたりしたけど、ええ強いんですそれがなにか、みたいな感じでただよってきたし、友達がいないんだねとか冷笑されたりしたけど、ええいないんです(あなたの言う意味ではね)それがなにか、的な感じでただよい続けましたよ。

たぶんその頃私はほとんど何に対しても責任を負っていなかったし、社会的立場もろくにないただの「私」だったので、自己(の文体)を守り抜くのに一生懸命だったんでしょうね。

そうこうしているうちに、ネットはただようものではなく、つながるものとしての性格を強めていき、SNSとか、私には関係ないなあと思ってるうちに枝葉を広げ、興味本位で少し私もやってみたり。以前私に自己顕示欲が強いんだねとおっしゃった方たちを拝見して、あなたの顕示されてるそれは自己ではないのか、とか思いつつも、きっとそれは思想的転向だと、いいことじゃないですかと、タダシヅカニワラツテヰル。

ところで私にも社会的立場がついてくるようになったし、何より単純に歳をくったし、今の自分にふさわしい文体で、今の自分にふさわしいことを、書かなければいけないのではないか、という気がしていました。匿名なのか実名なのかとか、ネット空間が監視社会的になってきたなとか、ものすごい評論家みたいな人がいっぱい書くようになったし、へたなことを書いたら「勉強してください」とか蹴飛ばされたりする、そんななかで、私の思い、書くようなことは、たいがいほかの誰かがすでにやっていることだ、とか思うとそこで、あーーーーー…と発するべき言葉が消えていく。

でも、最近ちょっと急に思ったんですが、昔だって今だって、私は確かにたいしたことを考えてるわけじゃないけど、そういう抑圧的な空間は、誰が、誰のために作り出しているんだと。周りの人が賢そうな文章を書いている。私の文章はなぜか不明だがひらがなが多くてどうも知性が足りなさそうだ。しかし考えてもみたまえよキミ、誰かが小難しい言葉で語っているそれだって、べつにたいしたことを言っているわけではないじゃん。いやそれが悪いってことじゃなくて、語る権利は誰にでもある。抑圧されるいわれはどこにもない。

なになにを語らなければいけない、なになにを考えなければいけない、これこれに振る舞わなければいけない、という呪詛が、思ったより強く私(たち)を苦しめている。それからうまく逃れてただようためのネット空間だったはずなのに、リアルな「私」とへんなふうにリンクして、語る主体を息苦しくしている。語れるものだけが語りうる空間に変質している。

だけど、私の根っこはそんなに変わっていない、相変わらずひらがなが多くてどうも知性が足りなさそうな文章だし、身近なことからしかものを考えられない。だけど身近なことからかなりいっぱい考えることができるし、ひらがなの使い手としては相当なものである(←あやしい)。

つまり、私に(あなたに)ふさわしい文体とは何か、というのは、私が(あなたが)決めるものであり、他人がぐだぐだ裁定をくだすべきものではない。必要なのは、自分で、自分にふさわしい文体を見つけ出す、それを発する能力をスポイルされない、ということだ。

とかなんとか。これこそ、究極的に個人的な話で、要するに「作文に困っていたけど、開き直ることにした」という案件です。そいで、ついったの140字制限とか楽しみながら、勝手にリハビリしてますねん。

 

デジタルの初歩(につまづく)

ブログ引っ越したはいいけど、困っているのは、記事の書き方がよくわからんということである。

ラインの色が気にイランのだが、変えられるのかどうかがわかランし、変え方だってわかランということだ。

デザインをHTML(とかなんとか)で調整できるっぽなんだけど、それってたしかウェブの初歩の初歩で、むかしちょっとだけやったけど、完全に忘れてるし。

思い出すぶんの容量が、脳内にはもうない。

何度も繰り返し言いたいけど、わたしにとってPCとかネット社会は全体として巨大ブラックボックスなので、とりあえず言うことを聞いて思い通りになっていてくれればそれでいいのだー。いつの日にか人間の制御能力を超えたコンピュータに征服される日が来たら、甘んじて降伏する(たぶんうそ。ほかの人間に頼ってその事態を打開してもらう)。

という、書き込みテストです。

わたしはほろびない(たぶん)

先日、生後5ヶ月の赤ちゃんを抱っこさせてもらう機会がありまして、おとなしく抱っこさせてくれたんですけど、そのうち求ムおっぱい!状態になって私の肩とかくわえまくりなめまくり、…っていう展開が、昔のるらっちそっくりだと思ってなつかしくなりましたよ。
さらに、いまのお悩みは「ほにゅうびん、ミルクを断固拒否すること」だってお話で、おおおわかる、記憶ある!保育園に授乳詣でをした日々がよみがえる。自転車のつらささえもよみがえる。
また別の日、2歳のお子さまがいる方と話したときに、イヤイヤ期たいへん、ということで、これまた、おおおわかる、記憶ある!ってなりました。
言葉が通じねえくせに、いっちょまえにイヤイヤされるとほんと、自分のなかの別の人が目覚めるわねって。
それこれがなつかしくなって、自分の昔のにっきなど、ちまちま読んだりしました。
リアルタイムのできごとを書かない、記録としての信ぴょう性のうすいにっきですが、そういう大きな時期区分には対応しているんだね、わりかし。
確実に子産み子育てをはじめとするライフイベントたちが、私をたゆまざる変革に導いてきたことを思い知る一方、私がそのつど、自分のなかの別の人を、覚醒させながら内部に取り込んで生きていることに思い至るのでありました。


たぶん、私のコア部分みたいなものは、意外とほろびないでいるような。


じつは最近考えている、他のいろいろな要素が絡んでいて、
たとえば「デモ」については私だってひと昔ふた昔単位でいろいろ思いが連なるところがあるけれども、現時点でどんなことを考えているかというと、
…を家族くらいにはしゃべれるけど他人には簡単にしゃべる気はありません、みたいなこととか、(でもその沈黙すら誤解されることのおそれも抱いているんだもちろん、だから沈黙は心苦しい)
もともと、ひとと話をすることは苦手だけれど最近ますますボキャブラリが、自分の言葉が自分のものでないという気持ちになる、にもかかわらずたぶん饒舌にはなっている、私の話したいことはこんなことではない、がどんなことだろう、を失ってしまいそうだと思っているとか、
それを失わせているのは、はっきりと自分自身だ、言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズンなんだけど、こんな世の中も、ポイズンさえも、私は内部に取り込んで生きているんだなあとか。


たぶん、それでも私のコア部分みたいなものは、意外とほろびないでいる。


簡単にしゃべることは、簡単に消費されてしまうので、らしいとからしくないとか、ふさわしいとかふさわしくないとか、おもろいとかおもろくないとか、誰かの目線がいつも気になるけど、、
簡単にしゃべらないことは、しゃべらないでいると簡単に抹消されてしまう、やっぱりそれは悲しいので、簡単にひっそりこっそり残しておくことにする。

発達のデコボコを生きる

るらくんは成長しています。
彼の成長とともに、わたしは、
「今までとは違う世界」を見続けています。
属性がかわると、世界は違うようにみえます。


私は相変わらず、教育学の範疇にいるのですが、
「発達」とは違うところばっかり勉強してきました。
なので「発達」については、通り一遍のことしか知りません。
なんちゃら期がどうこう、って話。
そして「発達はあくまで目安であり、個人差があります」。


個人差の世界を、ひとりの子どもをつうじて痛感するのです。
発達はデコボコしている。


たとえば「●●ができる」ということについて。
今、頭にあるのは、最近やった「九九の話」です。
るらくんは、九九が苦手です。…いえ、九九が得意です。
正確にいいます。
九九で憶えるような、ひとケタの掛け算は理解しています。
計算問題は(ケアレスミスを除いて)ほぼできます。
しかし、九九の暗唱が、なかなかできません。
とくに、先生の前でやると緊張してしまいます。
クラス友達は、「10秒以内」とか競い合っているので、
うっかりそれに乗ろうとして、けちょんけちょんになったりします。


・おぼえている。
・暗唱できない。
るらくんをふだんから見ている私には、
この2つはまったく別のことに思えます。
個人面談でも、力説しておきました。
しかし、頷いて聞いていたはずの先生にとって、
この2つは混ざり合い、
・ちゃんとおぼえていない
に集約されているんだ、ということに気づきました(連絡帳によって)。


しかし、しかしですね、
これは対応の仕方に関わる重要な認識ではないですかね。
…と私は思うわけです。
(練習を繰り返し覚えさせる、とは違う対応を模索しなければならない)
でもなあ、私とて、これまでその違いに正面切って向き合ったこともない、
たまたま目の前に、こういうるらくんがいるから、
ああ、この2つは違うんだなと思った、という。
だから、一方で、
「この子は頭には入ってるの!あんたが緊張させてんじゃないのっ?」と思い、
連絡帳に書きつけてやろーかと思いつつも、
そのパワー投下は切ないなあ、どうせ伝わらんなあ、という気持ちが、
しだいにソーダのように心にあふれていく。


そんなこんなの積み重ねで、るらくんは、たぶん苦労しています。
発達のデコボコを生きている。
学校という場所は、相変わらず、そのデコボコに適応できないというか、
デコボコくんが学校に適応できないというか、
どこまでも平らな道。(まあそれはそれで山あり谷ありだけど)


さて、そんなデコボコくんの親は、
学校化した社会の中で、でもここは家庭です、
しかし家庭とは社会の最小単位のことであります、という中で、
デコボコくんの親は、どう関わっていけばいいのでしょうか?
と、日々悩みながら生きているわけです。