まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

無口でした

自分の中にいろいろな言葉が去来するけれど、その大半は敢えて発語するに及ばないものだ。それは最初の段階でわかった。ぼくは「なじらない」と「あおらない」を当面の方針とした。
池澤夏樹「本当の『終わりと始まり』―春を恨んだりはしない」2011年4月5日、朝日新聞夕刊3面)

私の気持ちに言葉が与えられたみたいな、アリガトウでもって書き写してみた。
やっぱり情報が知りたいし、ついったーが断然速報力があるとか、やっぱし既存メディアの手軽さとか、SNSのコミュニティ見れば聞きたいことがピンポイントとか、あれこれと暇を見つけてはみてきたけど、あんまり言葉を発する気になれなくて、いまいち心のこもらない言葉をちょこちょこ書いたりしたけどそれ以上は入り込まず、傍観者みたいにしていた。
なんだか口調がきついなあと思って、ACのCMのこととか、被災状況の中継のこととか、保育園どうすんののこととか、原発どうなんののこととか、水はどうだのこととか、買いだめはいかんのこととか、何にしても、口調がきつい。
きついところに混じるとどうしたって「なじる」と「あおる」にいっちゃうし、それはどうしたって「なじりあう」「あおりあう」という結論しか呼ばないので避けたくて、でもこういう時に、のんびりもたいがいダメなのは経験済みだし、「なじられる」や「あおられる」も避けたいし、ということで、いつもより多少は無口でした。
最近ちょっと自分で腑に落ちたのは、「なじる」と「あおる」があふれかえる背後には、レヴィナス的な気持ちがあるのかなあという。べつに「レヴィナス的」とか知ったふうに言わなくていいんだけど、ダンナの口からつい最近その名前を聞いたのでふっと浮かんだのでした。
どうして私はこの状況で生き延びているのかという問い。
その問いの重みに耐えきるために、力を外に逃がしていかなければいけない、それが他者への攻撃的な態度(「なじる」や「あおる」)に結びつくのだとしたら、わかりやすすぎるけれど、かなしすぎる。それは問いに答える方向から、大きく外れている。
では私はどうしたらいいんだろう??
問いの重みを受け止めるだけの力を養うことかな、と思う。ある意味それは、感覚を鋭敏にすることでもあれば、鈍感にすることでもあるかもしれない。自分が壊れないように。かといってその力を、他人を壊す方向に使わないように。
…みたいなことを、敢えて発語するに及ばないのだろうか??んんん。
もうちょっと頭を整理して、具体的なことについて書いてみたいと思う。「なじらない」と「あおらない」を当面の方針とした場合に、言葉がいかに内向的になるかということについて。それでも発することに意味があるのかどうかということについて。さしあたって「反原発」をどう考えるかということについて、ちょっと今、脳内整理中。