まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

反原発を言う理由

4月10日、高円寺で反原発の大規模デモの予定(←想定30万人、すげー)。
http://410nonuke.tumblr.com/
私はずっと、消極的反原発派でした。…「原発って暴発したらこわいよねん?」と思い、「原発がエコってのはうそだよねん?」と思い、「原発なしでもやっていけるといいよねん?」と思い、「うちはそんなに電気を使い込んではいないぜ」と思い、「でもPCはつけてるけどね」「でも毎日掃除機かけるけどね(子どもがぜんそくだからね)」「でも除湿機はマメにかけるけどね(居住地は多湿だからね)」「でも空気清浄器はつけてるけどね(ダンナが花粉症で子どもがぜんそくだからね)」という…。ありふれた考え方。
今の事態について、思うわけです。「ほら、原発って暴発したらこわいよね!」「原発がエコってのはうそだよね!」「原発なしでもやっていけるといいよね!」「うちはそんなに節電の余地がないぜ!」…「でもPCは仕事に必要だよね」「でも毎日掃除機は必要だよね」「でも除湿機はマメにかけるよね」「でも空気清浄器はつけるよね」…
なんて弱いんだ。いやですね、こういうの。私ひとりなら、掃除機なんてナシでいいし、空気清浄器いらないし、除湿機だってほとんど使わない。ううう、家族の存在が私のエコライフを阻むんだ…。けど、家族で住むと停電の夜もなんだか心強かったし、不安も希望も理想も現実も、いろいろと話し合うことができる。やっぱり家族っていいですね。
さて、こういう、弱さ丸出しの自分が、原発(または反原発)とどう向き合うか。最近ちょっと考えてました。
デモなんてムダ、という意見を、ちょっとはねつけておきたい。
「今はそれどころではない、もっと落ち着いたら」について。それどころではない方が多くいらっしゃるのは知りつつも、でも少なくとも私や、「それどころではない」とネットに書き込まれる多くの方たちも含めて、現状「それどころではある」気がする。落ち着いたら…っていつかわかんないけど、それは今の熱情も収束する時では?やっぱり、脳みそぐわんぐわんしている時期にこそ、とは思うのよ。
「代替案がないくせに」について。アンチではなくオルタナティブを、という言葉を、私は嫌いではないけど、間違った使われかたをしていると思うことはよくあります。オルタナティブがないなら黙れ、という意味では決してない。あくまでも、アンチに安住するな、ということでしょう。そして現状、誰がアンチに安住していられるんだろうか。オルタナティブを探さなければ、ほとんどまともに生きていけない。オルタナティブの在り方を、あれこれとずっと探っている(節電もオルタナティブ)。
「デモってるひまがあったらバイトでもして義援金や支援金を送れ」について。それは完全に問題のすり替え。以前、あれこれ日本一のT大の先生に言われたことがあります。「資金協力を求めるより、その時間バイトでもして資金や支援金を稼いではどうですか」って、なんだか正論ぽい?けどこのひとは人間の労働とか生活とかについてまったく誤解していると思ったわ、ひとことでいえば「よけいなお世話」だし、デモとかの活動に賛同できないなら違う行動をとればいいだけよ、そこに労働をさっくり持ってきやがるとは何事よ、んんん、うまく言えないけど…。
で。
じゃあデモ行くのかといわれると、高円寺が遠い。そして、自分の弱さが恥ずかしい。
そして、やっぱり「なじらない」「あおらない」を大事にしたいと思うんだよね。なじってどうなる?あおってどうなる?誰が救われる?…たぶん、自分の弱さが救われるんじゃないかと思う。レヴィナス的な問い(カッコつけてまた使ってみる)から逃れられる。
誰に対してどうデモるべきかというと、今回は、「私の反原発的態度における消極性を反省し、現在の問題の一端は自分にもあるということを認識し、そこから学ぶべきことを学び、改善すべきところは何なのか真摯に考えるのだぞ、考えろ自分」とデモるということになるかと思われる…
ん?
自分にデモるって…自己満足じゃね?
いーんです。と、とりあえず思う。人間って弱いイキモノなので、「あたしは、こーゆう生き方をしたいと思うのよ!」とライフスタイル宣言していかないと、ずるずると便利な方に、多数派の方に、流されてしまう。私なんて特にそう。自己満足でもいい。言わなければ崩れそうな気がする。やっぱり、今しかない。
で、結論。高円寺のデモにはいかないけど、私は、私のいる場所で、デモるつもり。いや、べつに旗立ててシュプレヒコールとかやんないと思うんだけど。