まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

特別なシチュエーションで読む『二十四の瞳』

特別なシチュエーションとは、たとえば、
果てしなく気持ちが悪くて、飲み食べにも支障が出てるなか、
ミントのガムをかんでいると多少なりとも気分が良くなることを発見し、
立て続けにミントミントミント…をリピートしていたところ、
鼻の奥から胃の中までミントくさくなって絶望的な感情がよぎった、
…みたいなところで、

「大石先生、青い顔よ。」
田村先生に注意されると、よけいぞくりとした。
「なんだか、つかれましたの。ぞくぞくしてるの。」
「あら、こまりましたね。お薬は?」
「さっきから清涼丹をのんでますけど。」といいさして思わずふっとわらい、
「清涼でないほうがいいのね。あつういうどんでもたべると……。」
「そうよ。おつきあいするわ。」

という一節を、うろ覚えに思いだし、
そうそう、清涼でないほうがいいんだわ、と強く同意したついでに、
本棚から引っ張り出して、すごい久しぶりに読みました。
二十四の瞳』です。
こんな思い出し方をされると、壺井先生は想像されただろうか。
読書のきっかけ、どこに転がってるかわからない。捨てなくてよかった文庫本。


この『二十四の瞳』について、
センセイが「大石先生って泣いてばっかり」っておっしゃってたのはどの文章だったか、
いまウチのどのへんにあるのかを、思い出せない…ごめんなさい、
センセイがお話しされるのも聞いたことがあって、その時は
ほんまや大石先生泣いてばっかし、と思ったのでしたが、
生命にかなり直接的に関わるシチュエーションに身を置く、つまり、
月並みな言い方で申し訳ないが、母親とかやってるからだと思うけど、
いまのわたし、切実に泣けてしまった…
そして、ただ泣けるだけじゃなくって、この、
「泣ける」という感情が、じつはとても大切なんじゃないかと思うわけです。
センセイがおっしゃってた意味は、
「大石先生、泣いてばっかりで、教師としての務めもさくっと放棄して、無力すぎ」
ということだったと記憶していますが、
(教師のように)模範的な物言いを求められる立場に身を置き、
(教師のように)ある程度の知性と理性があると自他ともにみなされ、
(教師のように)私事よりも公的な立場を重視するよう求められる
そういう人が、自分の感性を押し込むことなく、そぎ取ることなく、
ひとの悲しみ、自分の悲しみを泣けるというのは…
大切なことだ。忘れてはいけない感覚だ。と思うのです。


もっと自分に引きつけよう。
知性や理性を大事にして、フル活用しようと心がけることが、
感情や感覚を引き下がらせたり、薄めたりすることと同義だと、
誤解している人が多い。
公的な立場、社会的ふるまいに配慮することが、
私的なものを隠蔽することと同義だと、誤解している人が多い。
誤解の結果、感情や感覚は、引き下がり薄められることに慣れて、
みずからどんどん薄まってしまう。
私的なものたちはどんどん価値を失っていく。
…みたいな、不自由さを、民主主義社会というのはこれまで、
時間をかけて溶かしてきたのではなかったかしら。
今のわたしたちは、物を言うのが、かなり自由だ。
「わたしの感覚が!」と主張することができる。
それに、知性や理性の裏付けを与えることもできる。
「わたしの立場は!」と主張することができる。
公的な場を突き崩すことだってできる気がする。
でもなんか、そういう、かなり自由な空間を、
自分たち自身の手で、また狭めようとしてるような気がする…
「もっと○○の立場の人のことも考えなさい」といわれる。
心からの言葉は、知性と理性と気遣いにまみれて、委縮する。
そして、匿名の世界で、暴発する。
暴発した言葉の断片におびえる。ますます言葉は、委縮する。
発することを許されない感情は、委縮し、薄まり、引き下がる。
匿名の世界で、暴発する。
それじゃだめなのよ!


泣くことすらできなかった時代に、大石先生はちゃんと泣いたんだと思う。
何もできなかったかもしれないけど、泣く気持ちを忘れなかった。
今は泣くことができる時代だし、本当は物を言うことだってできる時代なので、
私はせめて、おおっぴらに泣きたいなあと思うんですよ。
おおっぴらに泣く感性を、手放さないようにしたいと思うんですよ。
おおっぴらに泣いたり、怒ったり、喜んだり、楽しんだり。
物を言うことに対しては、ためらいがちになってしまうんだけど、
だからこそ、暴発する匿名の世界にもおそれずに、
ちゃんと物を言って生きている人のことをとても尊敬するし、
すこしずつでも、ちゃんと、物を言って、生きていくように、
自分をつよくしていきたいと思います。
そうやって自分も、時代をつくるひとりになりたいかなっ、てねっ。
清涼丹からここまできました。ああ、うどんが食べたいなあ。