まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

タダの理想をいう

これ、ちょうど1年前くらいに下書きしていたものです。なんかいま読み返していて、リアルタイムではないけれども、そのぶん客観的によめて、大事なことを言ってるような気がしたのでアップします。そんなわけで現在ウチの子はインフルエンザではないので、ご心配なく〜


子どもが病気になるのってふつうのことですよね。だから当たり前に受け止めて、当たり前に心配して、看病して、治ったら喜ぶというのでいいと思うのです。もうなんか、それだけでいいと思うのです。
熱を出した子どもを見ながら発する一言目が「困ったな」ってのは、感覚として、ゆがんでいるというか、親らしくないというか、いや端的に、にんげんらしくないのではないかな、ということで、私はとても落ち込んでいます。
子どもが熱を出したのは、1週間前の夜です。最初は病名不明で、まあただの風邪でしょうということでした。それがもういちど受診して再検査すると、インフルエンザB型とわかった。B型ってゆるくて、まったりと続きます。けれども確実に体にダメージを与えているらしく、熱が下がってもなかなか、アクティブに行動再開しようとはしません。今週いっぱいダメっぽい。
正確にいえば、今回は「困ったな」ではなかった。出張を無事に乗りきった直後で、しかもまだ授業が始まっていないので、「助かった」と思ったのです。ああ、このタイミングでよかったと。
…。しかしいったい、なにが「助かった」のだ。なんならば「助からない」のだ。
直前に連絡をとってたママ友さんに、メールついでに報告しました。子どもがインフルエンザなっちゃってさ、抗生物質のませんのに一苦労ですよ。
お返事がきました。わかるわかる。うちもたいへんだった。子どもとバトルするわ、上司からはいろいろ文句いわれるわ、パニックなりそうだったよ。
うちは幸い、上司から文句きません。いや、来週以降だったらわからない展開。上司からは来ないけど、補講とか入れることになったら、生徒さんから文句ぶうぶうだったのかも。
とある女性の先生から言われました。教育学的には、子どもを見守り育てるのは、親でなくてもいいのだから、そこは割りきって、子どもが病気になった時にも人に預けておいていけるように手をうっていかないと。
ほぼ賛成ですけど、ちょっと首を傾げる部分もあって。そうかなあ。それは子どもが健康なときに、しかもふだんからそういうかたちで社会を形成して、その中に子どもを置いていてこその話ではないのかなあ。
うちは保育園ユーザーで、病気のときには当然保育園には行けないので、それにかわる社会がないのですよ。核家族だし。
さらに、近くに病児保育施設がないので、安心してお任せできる(預ける側も、預けられる側も)場所がない。病児保育探したけど、けっこうな場所まで病人を連れまわすことになってしまう…。
教育学的には、病気で不安になっているときにこそ子どもは身近な存在を求めるのであって、そこで親が「困ったな」とか言ってたり、だれか(ファミサポさんとか?)に預けてふだんどおりに消えていくってのはどうなのよ、と思うんですけども。
かといってですね、違うんですよ、子どもはやっぱり親が面倒みるべき!だから親は家庭にいて、子どものために家を守るべき!って言ってるのとも違うんですよ。それも教育学的にはどうなのよ、という話で。
いや、私は「教育学的に」ということがよくわかってないのかも。
もっとシンプルに、家族が病気になれば看病をしてなにが悪いのかと。それを認めあえる社会にしないで、なんで個人で事情を抱え込んで途方にくれないといけないのかと。私がいいたいのは、その程度のことです。
病児保育施設があるといい。どうしても何が何でもやむをえない、休めない事情は、働くかぎりあることだから。でも四六時中やむをえないというわけではない、はず。その時は「子どもを看るために休みます」といえるといい。どっちか、ではなく、どっちもだ、どっちも必要だと思う。
なんか、安易な共感の求め方はよくないかもしれないけど、いっそプリミティブにいいたい、自分の身になって考えてみてはどうか。自分が病気になった時にお荷物扱いされる覚悟はできているか。家族は仕事のため=社会のために、ふだんどおりに消えていくのでいいか。そういう社会でいいか。
教育学的に、それでいいか。
倫理的に、それでいいか。
では、ということでやっぱり子どものために母親は尽くす存在であるべきで、病気になるかもしれない子どもにそなえて、母は家で待つべきとかいわれると、それはそれで…。いっそプリミティブにいいたい、自分の身になって考えてみてはどうか。家族はあなたのため=社会のために、ふだんから家にいるのでいいか。そういう社会でいいか。それは別に母でなくたってかまわない、お父さん、あなたでもいい。
理想をいうのはタダだ、どうせタダなら、はっきりしっかりきっちり、いちど言葉に出してみるのがいい。そのことを忘れている人が多い。現実は大切だ。現実的思考は大切だ。だからリアリストの皆さんはそんなに不安がらなくていい、どっしりと構えて、タダの理想なんてものは、どうせタダなんだから、惜しみなくしゃべればいいのだ。そんなに抑圧をしなくていい。
私が言いたいのは、タダの理想です。家族が健康な時ははたらき、病気になれば気遣う。また元気になれば働く。それをしたい。休めない時には病児保育を使い、休める時には看病をする。それだけのことをしたい。生きている人たちみんながそのようにして働くことと生きることをできるようになればいい。タダだから言わせてください。そして、この理想がかなわない理由はなんなのか、そこを遮る「現実」って誰のためのものなのかを、教えてくれたら、もっとうれしい。