まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

ふさわしい文体へ

思い起こせば私がネットで書き始めたのはまだ20世紀でしたよ。
その頃は自分のHPを持ったりネット上に自分の文章をさらしたりするのはまだまだ多くなかったので、誰に向けているわけでもないただよう文章であっても、時々誰かのところに漂着して、言葉のやりとりとか、しましたよ。

リアルを生きている方々には、自己顕示欲が強いんだねとか冷笑されたりしたけど、ええ強いんですそれがなにか、みたいな感じでただよってきたし、友達がいないんだねとか冷笑されたりしたけど、ええいないんです(あなたの言う意味ではね)それがなにか、的な感じでただよい続けましたよ。

たぶんその頃私はほとんど何に対しても責任を負っていなかったし、社会的立場もろくにないただの「私」だったので、自己(の文体)を守り抜くのに一生懸命だったんでしょうね。

そうこうしているうちに、ネットはただようものではなく、つながるものとしての性格を強めていき、SNSとか、私には関係ないなあと思ってるうちに枝葉を広げ、興味本位で少し私もやってみたり。以前私に自己顕示欲が強いんだねとおっしゃった方たちを拝見して、あなたの顕示されてるそれは自己ではないのか、とか思いつつも、きっとそれは思想的転向だと、いいことじゃないですかと、タダシヅカニワラツテヰル。

ところで私にも社会的立場がついてくるようになったし、何より単純に歳をくったし、今の自分にふさわしい文体で、今の自分にふさわしいことを、書かなければいけないのではないか、という気がしていました。匿名なのか実名なのかとか、ネット空間が監視社会的になってきたなとか、ものすごい評論家みたいな人がいっぱい書くようになったし、へたなことを書いたら「勉強してください」とか蹴飛ばされたりする、そんななかで、私の思い、書くようなことは、たいがいほかの誰かがすでにやっていることだ、とか思うとそこで、あーーーーー…と発するべき言葉が消えていく。

でも、最近ちょっと急に思ったんですが、昔だって今だって、私は確かにたいしたことを考えてるわけじゃないけど、そういう抑圧的な空間は、誰が、誰のために作り出しているんだと。周りの人が賢そうな文章を書いている。私の文章はなぜか不明だがひらがなが多くてどうも知性が足りなさそうだ。しかし考えてもみたまえよキミ、誰かが小難しい言葉で語っているそれだって、べつにたいしたことを言っているわけではないじゃん。いやそれが悪いってことじゃなくて、語る権利は誰にでもある。抑圧されるいわれはどこにもない。

なになにを語らなければいけない、なになにを考えなければいけない、これこれに振る舞わなければいけない、という呪詛が、思ったより強く私(たち)を苦しめている。それからうまく逃れてただようためのネット空間だったはずなのに、リアルな「私」とへんなふうにリンクして、語る主体を息苦しくしている。語れるものだけが語りうる空間に変質している。

だけど、私の根っこはそんなに変わっていない、相変わらずひらがなが多くてどうも知性が足りなさそうな文章だし、身近なことからしかものを考えられない。だけど身近なことからかなりいっぱい考えることができるし、ひらがなの使い手としては相当なものである(←あやしい)。

つまり、私に(あなたに)ふさわしい文体とは何か、というのは、私が(あなたが)決めるものであり、他人がぐだぐだ裁定をくだすべきものではない。必要なのは、自分で、自分にふさわしい文体を見つけ出す、それを発する能力をスポイルされない、ということだ。

とかなんとか。これこそ、究極的に個人的な話で、要するに「作文に困っていたけど、開き直ることにした」という案件です。そいで、ついったの140字制限とか楽しみながら、勝手にリハビリしてますねん。