まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

わたしはほろびない(たぶん)

先日、生後5ヶ月の赤ちゃんを抱っこさせてもらう機会がありまして、おとなしく抱っこさせてくれたんですけど、そのうち求ムおっぱい!状態になって私の肩とかくわえまくりなめまくり、…っていう展開が、昔のるらっちそっくりだと思ってなつかしくなりましたよ。
さらに、いまのお悩みは「ほにゅうびん、ミルクを断固拒否すること」だってお話で、おおおわかる、記憶ある!保育園に授乳詣でをした日々がよみがえる。自転車のつらささえもよみがえる。
また別の日、2歳のお子さまがいる方と話したときに、イヤイヤ期たいへん、ということで、これまた、おおおわかる、記憶ある!ってなりました。
言葉が通じねえくせに、いっちょまえにイヤイヤされるとほんと、自分のなかの別の人が目覚めるわねって。
それこれがなつかしくなって、自分の昔のにっきなど、ちまちま読んだりしました。
リアルタイムのできごとを書かない、記録としての信ぴょう性のうすいにっきですが、そういう大きな時期区分には対応しているんだね、わりかし。
確実に子産み子育てをはじめとするライフイベントたちが、私をたゆまざる変革に導いてきたことを思い知る一方、私がそのつど、自分のなかの別の人を、覚醒させながら内部に取り込んで生きていることに思い至るのでありました。


たぶん、私のコア部分みたいなものは、意外とほろびないでいるような。


じつは最近考えている、他のいろいろな要素が絡んでいて、
たとえば「デモ」については私だってひと昔ふた昔単位でいろいろ思いが連なるところがあるけれども、現時点でどんなことを考えているかというと、
…を家族くらいにはしゃべれるけど他人には簡単にしゃべる気はありません、みたいなこととか、(でもその沈黙すら誤解されることのおそれも抱いているんだもちろん、だから沈黙は心苦しい)
もともと、ひとと話をすることは苦手だけれど最近ますますボキャブラリが、自分の言葉が自分のものでないという気持ちになる、にもかかわらずたぶん饒舌にはなっている、私の話したいことはこんなことではない、がどんなことだろう、を失ってしまいそうだと思っているとか、
それを失わせているのは、はっきりと自分自身だ、言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズンなんだけど、こんな世の中も、ポイズンさえも、私は内部に取り込んで生きているんだなあとか。


たぶん、それでも私のコア部分みたいなものは、意外とほろびないでいる。


簡単にしゃべることは、簡単に消費されてしまうので、らしいとからしくないとか、ふさわしいとかふさわしくないとか、おもろいとかおもろくないとか、誰かの目線がいつも気になるけど、、
簡単にしゃべらないことは、しゃべらないでいると簡単に抹消されてしまう、やっぱりそれは悲しいので、簡単にひっそりこっそり残しておくことにする。