まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

誠実な思考

本当に頭を働かせられるひとは、その誠実な働かせ方を知っているという良書。

福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと

福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと

山本さんが、『福島の原発事故をめぐって―いくつか学び考えたこと』を手掛かりにして、私自身もいくつか学び考えてみたいなと思った。
以下ネタバレです…って、ネタバレない読書コメってありえるのか?


問題は、プロセスとして現在の私たちの生活が「安全」かどうか、ということ「だけ」ではなく、

「唯一の被爆国」を枕詞のように語ってきたこの国が戦後半世紀以上にわたって被曝の問題にまじめに取り組んでこなかったこと(p.3)

であり、それは事故以来の混乱ぶりから、どうしたって見て取れてしまうことだ。
まじめに取り組もうと、山本さんは少しずつ考えの核心にいく。

原子力発電は、たとえ事故を起こさなくとも、非人道的な存在なのである。(p.44)

という言葉に、本のまん中あたりでたどりつくまでに、いくつかの大切なことにゆっくり言及していく。


まず、よく知られている(たぶん)ように、原子力の「平和利用」は、当初から「軍事力利用」と紙一重のものとして構想されてきたし、現状として(世界レベルで)そうである。ですね?
その紙一枚のところで、踏み外さない努力を重ねるひとたちがいることを、私は知ってる。けれども、未知の力に対する欲望は、いろいろな形で現れる。それがふとした瞬間に、他のひとが守り続ける紙一枚くらい、簡単に吹き飛ばすだろうという想像を、するなと言われても無理だと思う。
つまり被曝問題は、やっぱり被爆問題だということだ。
そして、紙一枚の努力にもかかわらず、原子力はいまでも未知・未解決の部分が多すぎる。
新しい分野のことだから、未解決部分を差し引いても将来的な有望さを評価したい気持ちは、わからないでもない(共感しないけど理解する)。だけどね、と思う。だけどね。
私は、いちばんの問題は放射性廃棄物だと思う。

無害化不可能な有毒物質を稼働にともなって生みだし続ける原子力発電は、未熟な技術と言わざるをえない。(p.33)

うん。言わざるをえない。処分方法について、その有害性が及ばない方法の説明は受けてきたけれど、はっきりいって数万年単位のお話なんて、クレイジーだと思う。
CMでもよく見ていたけれど、あまりのクレイジーさに、そこに現実味を与えること(の不可能性をちゃんと言うこと)を放棄していた自分を、とても反省している。


事故以来、話題にのぼるのが、労働者のこと。下請け・孫請け・ひ孫請け…現場で働いているひとたちのことを、把握しきれないくらいに、雇用者の主体がわからなくなっている。誰のための、何の仕事か。
そして、事故の被害を抑えるために身を挺して現場で働いてくださっているひとたち、その存在に感謝しつつ、別のことも考えてしまう。
そんな労働条件が存在することは、やっぱり本質的に、非人道的ではないだろうか?
雇用者の主体がわからなくなっている、その雇用者の一端は、私にもあるのかもしれない(電気の使い手としての)。私も、非人道的なシステムを構成している一部分である。そしてそれは、とても不本意なことだ。


技術については、私が実証・反証することはできない。けれども、原発が未知で未完成の技術だからこそ、可能性もあるがリスクもあるだろうことはわかる。
そしてそのリスクが、ちょっとしたヒューマンエラーでも暴発する可能性があることも。さらに、

原発では、事故の影響は、空間的には一国内にすら止まらず、なんの恩恵をも受けていない地域や外国の人たちにさえ及び、時間的には、その受益者の世代だけではなくはるか後の世代もが被害を蒙る。(p.57)

ということも。
福島の原発事故がどうだったか、どうなのか、を、仮に万一ひょっとして差し置いても(とても大事なことだけれど)、本質的にそういうタイプのリスクなのだ、ということは言える。


山本さんの誠実さがわかるのは、「科学技術幻想」について歴史的な視野から触れられているところ。「科学万能みたいに思ってんじゃねえよ」と吐き捨てるのでなく(それは「非科学に走ってんじゃねえよ原始時代に戻る気かよ」と吐き返される)、「科学技術には『人間に許された限界』があること」、つまり、超えられない力があって、それを無理に超えようとすることが、社会そのものを破壊しかねないということを、科学史の視点から記している。
昔のひとは、…えらかったというか、その時々の状況から気づいてきたのである。(でも気づききれないから、問題は繰り返されるのだけど)
今のひとは、…やっぱり今は、気づくべき状況なんだと思う。(でも気づききれないから、今後も問題は繰り返されるように思う。繰り返すうちに、本当に破綻するまで)
原発はやっぱり、人の手を超えている。なぜなら、人の「手」で作られたものではないから。

経験主義的にはじまった水力や風力あるいは火力といった自然動力の使用と異なり、「原子力」と通称されている核力のエネルギーの技術的使用、すなわち核爆弾と原子炉は、純粋に物理学理論のみにもとづいて生みだされた。(pp.88-89)

これまで私は、かなりプリミティブな感情もコミで、得体のしれないおそろしさとして感じていたけれども(説明をいくら見ても正体がつかめないおそろしさ)、
理論のみしか頼りにならない世界への不安、さらに、理論のみの世界を、人の手になる技術(しかもけっこうヒューマンな部類の)で支えることへの不安、そこまで理論と実践の距離は近いのか?という疑問が、言葉をもって表現されたことに、深く感動した。これだ私の感じていたところは、と思った。


山本さんは、目新しい資料は(たぶん)使っていない。これまで知られてきたことを、しかも必要以上の深読みを避け、ごくごく常識的に読み取れる範囲で読んで、考えている。
その考えのゆきつくところは、どうしても、原発の存在は根源的に認められない、ということになる。文明社会のための必要悪だとしても…悪の度合いが、許容範囲を超えている。既存の発電技術に問題があるとしても…その問題性を超えている。
日々情報を得ることも大事だし、日々のスタンスのとりかたは微調整されるだろう。けれども、基本的な物事の考え方、自分の立ち位置のとり方は、この本1冊を指針にすればいいと、私は思っている。
目からうろこが落ちるタイプの本ではなく、自分の視界を確認することができた、という感じ。
ずっとこの本について、書きたいと思っていたけれど、いいかげんに書くことはできない、という気持ちがあって、時間がとれずなかなか書けないでいた。
でもやっぱり、いちどは形にしないと、自分の心が収まらなかったんだ。現時点での、私の、基本的な立ち位置を確認することだから。