まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

どういん、どういいん?

トラバしたい気持ちもあるけれど、
そこまでのレベルのものが書けないので、
断章、もしくは、メモ、もしくは、寝言として。


動員することは快楽だ。
動員されることも、じつは快楽だ。
(しかるべき快楽を得られない時に、不快になる)


私は、自分の動きに関して主体性なんていまいち信じていない。
簡単に挑発され、アジられ、動員されている。
ぎくしゃくは、それに由来する。
自分の意思はある。けれども、意思を形にすると本当にこの動きなのか?
さぁ…そうかもしれないし、そうでないかもしれない。


動員されて集合すると、意思を形にしたぞっ、という快楽がある。
(動員して集合させると、たまんなく快楽。)
けど、この快楽を、私は十分に味わってよいのだろうか?
この快楽に、後ろめたさはないのだろうか?


とかなんとか、よけいなことを考えるので、
私の身体はぎくしゃくするようになってしまった。
なめらかに動かない。快楽を拒絶するような、ぎくしゃく、
それによってなんらかの留保を得ようとしている。
ちょっとせこいね。でも、しょうがないね。


これが1こめ。
もう1こ。


「今はそんなことを言っちゃいけない」というセリフがきらい。
いつだって、そんなこともあんなことも言っていいはずだ。
そうゆう口封じは、だって、翼賛体制というのではないか。
勝手に非常事態宣言を出すんじゃねえや、と、思ってしまう。
いつだって、ぐちゃぐちゃ文句を言いたい。
オルタナティブは?」とか聞かれると、しばきたくなる。
ねえよ、オルタナティブなんてねえよっ、それが何か?
私は、ぐちゃぐちゃと思うことを言いたいだけだっ。


それだって動員されて復唱させられてんじゃないの?といわれると、
うう、一歩も動けなくなってしまう。言わないで。(←口封じじゃん)


ぐちゃぐちゃを生きている。ぎくしゃくを生きている。
私の身体の動き、私のセリフ回し、いつもぎこちない。
動員の快楽と、距離をどうとればよいか?
わかんない、わかんないを今日も生きている。