まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

で、現世

極楽終了。現世に帰る。
そうしたら、るらくんの「荒れ」が顕在化していた。
↑すごくオオゲサ。でも問題は、「叩く」ということである。しかも顔。
叩く相手は、もっとも近しい人に集中する。つまり私。そうでなければパパ。なんで叩くのか。たんなる感情の起伏ではない。いや、とりあえず最初の部分では、感情にまかせているんだろう。でも、叩かれた側がなんらかのリアクションをする、その反応も含めて、なんだかるらにわれわれが、「試されている」という感じが強くする。
こちらの感情も複雑だ。「いたいじゃないか」というムカつきがある。「いけないことだと教えたい」という教育的視点がある。「成長の一過程である」という悟りがある。「自我がめばえてきたのね」という微笑ましさがある。どれも正解。でも、だったらなんなんだ。私はどうすればいいんだ。
ソフトランディングをしたい。だれの?私の、だ。るらの側にソフトランディングはありえない。少なくとも私がコントロールできる範疇のものではない。私の、私による、私のためのソフトランディング。もっとも気持ちを害せずにこの事態を切り抜ける。結局それが、るらにとっても最もベターなんである。
で、いろいろやってみた。
言い聞かせる。「叩くことは、やっちゃいけないことなんだよ」という。唸る。唸りながらまた、叩く。悪いことだとわからないからやっているのではない、わかってやっている、という表情を、前面に出しまくって、叩く。わかっている相手に、今これ以上言い聞かせてなんになるか。やめる。
こちらも叩いてみる。「教育の一環として」叩いてみる。ぺちん。「痛いでしょう、いやな気持ちでしょう、わかったらやめなさい」という。わーんと泣く。泣きながらべしべし。事態は変わらない。「私が叩いた」という事実が付加されただけ。「カラダでわからせる」は幻想。で、私の気分はどうか。すげー、わるい。ソフトランディングとはほど遠い。なのでみなさん、暴力はやめましょうね。少なくとも、暴力の行使によって状況を変えることができるというのは間違いです。体罰はんたーい。
黙って見つめる。ここでひとつ気づいたこと。するとるらくんは、目を叩いてくる。しかも上から下に、目をふさがせるように。で、彼自身の目は、私の目を見ていない。つまり、見つめられたくない。責めるような、咎めるような目線を、避けたいと思っている。やましいんだなあと思った。たたく行為がやましい。そう思ってみれば、付随するすべての行動が、逃げ場がほしいというしぐさに見えてくる。
こんな時、毅然と私は、彼に反省を求め続けるのがいいのか。それとも包容すべきなのか。とりあえず今日は、ずっと反省を求め続けてみた。しばらくべしべし叩いてきて、それからちょっとして、ぺこりと頭を下げたのであった。ごめんなさい。
私の感情は、とっても満足した。彼はその直後に「おっぱい」と宣言し、吸いついて満足し、寝てしまった。要するに眠いのだ。狭くなった感情が、もつれにもつれて、叩くという行為につながる。私にはそれもわかっている。だったらいい、のか。どうなのか。