まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

あぶない教科書

某市で某教科書が採択されたので某氏が対応に乗り出しているため私も参加させて〜とせがんで、近所で集まりを開いてもらって子連れ参加。
某教科書はいわゆる「あぶない教科書」ですが、一時の熱が冷めた雰囲気でどうも「あぶない」のバックラッシュというか、「あぶないと言い募るやつらがあぶない」みたいな感じになっているそうな(客観的データは知らないが空気はわからんでもない)。
でも今回そんなわけで某氏が熱く語るので私もいろいろと読んでいくと、いわゆる「あぶない教科書」という言葉で語れる明確な「あぶない」よりも、もっと奥底のところでよっぽど「あぶない」のだと思う。
つまり、「あぶないと言い募るやつらはあぶないと短絡的に決めてかかるような態度を是とするのはやっぱりあぶない」というか、「生活の主人公はお上じゃねえだろう」というか、ようするに歴史観、社会観を根幹からまちがえている。「観」についてまちがい、ただしいを認定するのはたいへんナンセンスにノンセンスだけれども、それでも明らかにまずい考え方というのはあって、いったい私は(そしてあなたは)誰なんだということについて思考停止させる歴史観、社会観というのはまずい。アイデンティティを形成させないというのは、アイデンティティ喪失より手ひどい仕打ちである。
結局のところ、あぶない。
でもこのあぶなさに抗するのは、難しくもある。学校という場所がそもそも、けっこうこのあぶなさを内包しているから。私たちはけっこうこのあぶなさを内包しているから。いくつかの言葉に復権を願わないといけない。市民?人権?うんうん。それとあとは…。