まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

揺さぶられながら、心を揺すぶるものへ、この心を

思い切って差し出せ!という気持ち。
三浦大知にここ数日、中毒している。
(あなたホント、ちょっとくらいのが好きよね byだんな)

こういう時に手に取る本は、どうしても見田宗介『白いお城と花咲く野原』で、
(あなたホント、こういう酔わせる文体が好きよね byだんな)

今日の通勤経路は、この組み合わせを堪能した。


それで、
メロンと引き換えにD論への覚悟を決めさせられた、というのは冗談にしても、
D論への覚悟というか、私はこのような生き方を選ぶのだという覚悟、
それは問われているのだし、問われるまでもなく実践しているつもり…?
だけどやっぱり日常、ついついだれちゃって、漫然としちゃっている、
私が生きていても良いという、確信のようなもの、どうやって得ればいいか、
漫然と楽しい日常もすてき、でも時々は、
揺さぶられながら、心を揺すぶるものへ、この心を、
思い切って差し出せ!
そして、揺れるからだとともに、生み出せ、形あるものを!
という気持ち。ふるいたたせて、ふるふる。


それで、また言葉を引用する。

 現代の陰気な良心たちのペシミズムに耳をふさいで、死者たちや弱者たちを切り捨てたところに成り立つ現在の「明るさ」の虚構に逃げ戻ることによってではなく、ペシミズムをつきぬけた向こうのところに、死者たちや弱者たちや、未だ生まれてこないすべての世代と共に生きるということを、もういちどひとつの明るさとして見いだすことがもしあるとすれば、それはわたしたちが、どのような感性と理性を獲得することができた時なのだろうか。 (見田、前掲書8ページ)

すべての生き方は、ここに通じる(べきだ)。
結局、私が師匠のところで学びたいと思った理由は、こういうことだったような気がする。
そして、今でも尊敬するひとたちは、すべてこういうことのような気がする。
わたしは、昔のことを、人しれないところでちょこちょこと調べているようだけれども、
それでもこういうことに、つながるものなのだと、本気で信じている。
信じているならば、信じていることを、最後まで信じてあげなければ。
信じていると、言葉にしていかなければ。
そういう気持ち。