まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

社会運動のつくり方、について

いつもちょっと反応が遅い読書の記録です。

atプラス14

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小熊英二+湯浅 誠「社会運動のつくり方──世界を自分で変えるには」
がおもしろかった。
市民運動にそれほど詳しいわけでもないけれども、
これまで経験はありません、ってこともない…
その程度の経験値である私が読むと、
湯浅さんの言ってることが、とても胸にしみるのだけど、
小熊さんは何をそんなに、突っかかっているのかと思うんだけど、
それに小熊さんの時代認識はちょっと古いと思うんだけど、
どうなんだろう?


対談のポイントの一つが「調整」という言葉の使い方だとして、
小熊さんは「調整」って政府エリートや圧力団体リーダーがやることで、
うちらの民主主義には関係ないんじゃ?っていうんだけど、
私には、湯浅さんのいう「対話」とか「合意形成」ってのがわかる、
というか、
「ダメなものはダメ!」にハッとした時代もあったし、
そういうニーズはいつだってあるんだけど、
「ダメなものはダメってのはもうダメ!」という気分も強くあって、
そこはやっぱり、
「どーしてダメなのか」「じゃどーすればいいのか」を、
しみじみねちねちと話し合うこと、すりあわせること、
面倒だけどやっていくしかないでしょうっていうのを、
これまでの社会運動も当然やってこられたかもしれないけど、
今しっかり言葉にすることが、大事なんじゃないかなあと思った。


いまちょうど、保護者会という「圧力団体」リーダーとして、
保育園に対して、やってます、「調整」。
いや違う、圧力なんてかけられないっす、売り手市場だし。
「対話」「合意形成」です。
そしてこれは、まぎれもなく「調整」だと思います。
むこう側(園)のいうことを、なるべく丁寧に理解しながら、
こっち側(保護者)のいうことも、伝える。
伝えながら、お互いに勉強をして思考を深めていく。
これすっごい面倒だけど、民主主義の基本だと。
実際、なかなかできてないんだけど。


あのさ…あとさ…
脱原発デモの時に、野田首相(当時)に会ったではないですか、
あれは小熊さん的な意味での「調整」なんでしょうか??


そうそう、「対話」といえば。
これもちょっと前の記事への反応ですみませんが、
リスクを決めるのは科学ではなく、社会だ ―― シンポジウム「みんなで決める安心のカタチ 〜 ポスト311の地産地消を目指して」
これがすごく良かったと思います。
考えさせられました。
目の前の野菜の放射線量がどうこう、という説明では、
どうしても納得のいかないものがある(あった)、
それは必ずしも不勉強なせいではなくて…
というより「勉強」のあり方を間違えている、お互いに。
「対話」にむけての姿勢こそが問われているのであって、
私たちはたえず、「対話」にむけて「勉強」をするべきなんだ。


考えさせられたひとつとして、
ふだん食に関心をもって「有機野菜」などを選んでいる人たちが、
高い割合で、東北や関東の野菜を避けて、
西日本産にいちはやく切り替えていった、
それで、自分の生産物について、長年育て方を工夫してきた、
いわゆる有機農家の人たちが、結局すごい打撃を受けたという話。
私も一時、地元産の野菜を扱う店から宅配を頼んでましたが、
やっぱり3.11後、3割お客さんが減ったそうです。
避難した人や、産地を切り替えた人が多くて。
それで、自分が避けるだけならまだしも、
こんな土地で野菜つくんのやめなよって言ってきたとか。
自分の行動が、勉強した結果としてとる行動が、
どういう影響を、誰に対して及ぼすかということも含めて、
考えないといけないんだね…。
でもこの場合、どうすればよかったのか?って正しい答えは出ない。
せめて、これまでのつながりを断ち切られるときに、
少しでも対話があるべきではなかったか。ってことだよね。
そっかー、私は結局留守の日が増えて、食材が余り気味になったので、
扱いをやめたんだけど…。理由をちゃんと言わなかったな…。


本も出てます。
すごいすごい勉強になりました。
ちょっと知識をもつと、えっへんな気持ちになって、
その知識を分け合ってない人との対話が面倒になり、
つい、主張を振りかざして大きい声を出したくなるけど、
もっと謙虚に生きたいと、すごい思いました。
みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年

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