まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

移動の多い1週間

日曜に実家に子どもを連れてきて、月曜から水曜まで調査出張。金曜の夜にバスに乗って翌朝着。土曜はまる1日車に乗りまくりで、その夜にまたバスに乗って、到着なう、の日曜朝。
明日は、実家から子どもを連れて帰宅しないと。
しばらく乗り物、とくにバス、乗りたくないかもー。
この1週間の出来事を、詳細は略してまとめると、「アベノミクスすげー(@_@)」に尽きる。確実に末端までやってきて、私たちの生活を変えていく。
いや、アベノミクスくるよ、くるよーという気持ちが、私たちの生活を変える、というべきかも。
つまり、アベノミクスを呼んでる人たちが確実にいて、すでにその力が、生活に関わるところに、普遍的に及んでいるということだ。
アベさん登場の前から、私たちはアベノミクスの影響下にあり、仮にアベさん個人がどーにかなっちゃっても、アベノミクス的なものは終わらない、ということだ。
そんなこんなで、「アベノミクスすげー(@_@)」
そして私は、自分が確実にその片棒を、つまようじほどの片棒を担いだことを自覚するものである。そーじゃないと、まともに生きていけない。

タダの理想をいう

これ、ちょうど1年前くらいに下書きしていたものです。なんかいま読み返していて、リアルタイムではないけれども、そのぶん客観的によめて、大事なことを言ってるような気がしたのでアップします。そんなわけで現在ウチの子はインフルエンザではないので、ご心配なく〜


子どもが病気になるのってふつうのことですよね。だから当たり前に受け止めて、当たり前に心配して、看病して、治ったら喜ぶというのでいいと思うのです。もうなんか、それだけでいいと思うのです。
熱を出した子どもを見ながら発する一言目が「困ったな」ってのは、感覚として、ゆがんでいるというか、親らしくないというか、いや端的に、にんげんらしくないのではないかな、ということで、私はとても落ち込んでいます。
子どもが熱を出したのは、1週間前の夜です。最初は病名不明で、まあただの風邪でしょうということでした。それがもういちど受診して再検査すると、インフルエンザB型とわかった。B型ってゆるくて、まったりと続きます。けれども確実に体にダメージを与えているらしく、熱が下がってもなかなか、アクティブに行動再開しようとはしません。今週いっぱいダメっぽい。
正確にいえば、今回は「困ったな」ではなかった。出張を無事に乗りきった直後で、しかもまだ授業が始まっていないので、「助かった」と思ったのです。ああ、このタイミングでよかったと。
…。しかしいったい、なにが「助かった」のだ。なんならば「助からない」のだ。
直前に連絡をとってたママ友さんに、メールついでに報告しました。子どもがインフルエンザなっちゃってさ、抗生物質のませんのに一苦労ですよ。
お返事がきました。わかるわかる。うちもたいへんだった。子どもとバトルするわ、上司からはいろいろ文句いわれるわ、パニックなりそうだったよ。
うちは幸い、上司から文句きません。いや、来週以降だったらわからない展開。上司からは来ないけど、補講とか入れることになったら、生徒さんから文句ぶうぶうだったのかも。
とある女性の先生から言われました。教育学的には、子どもを見守り育てるのは、親でなくてもいいのだから、そこは割りきって、子どもが病気になった時にも人に預けておいていけるように手をうっていかないと。
ほぼ賛成ですけど、ちょっと首を傾げる部分もあって。そうかなあ。それは子どもが健康なときに、しかもふだんからそういうかたちで社会を形成して、その中に子どもを置いていてこその話ではないのかなあ。
うちは保育園ユーザーで、病気のときには当然保育園には行けないので、それにかわる社会がないのですよ。核家族だし。
さらに、近くに病児保育施設がないので、安心してお任せできる(預ける側も、預けられる側も)場所がない。病児保育探したけど、けっこうな場所まで病人を連れまわすことになってしまう…。
教育学的には、病気で不安になっているときにこそ子どもは身近な存在を求めるのであって、そこで親が「困ったな」とか言ってたり、だれか(ファミサポさんとか?)に預けてふだんどおりに消えていくってのはどうなのよ、と思うんですけども。
かといってですね、違うんですよ、子どもはやっぱり親が面倒みるべき!だから親は家庭にいて、子どものために家を守るべき!って言ってるのとも違うんですよ。それも教育学的にはどうなのよ、という話で。
いや、私は「教育学的に」ということがよくわかってないのかも。
もっとシンプルに、家族が病気になれば看病をしてなにが悪いのかと。それを認めあえる社会にしないで、なんで個人で事情を抱え込んで途方にくれないといけないのかと。私がいいたいのは、その程度のことです。
病児保育施設があるといい。どうしても何が何でもやむをえない、休めない事情は、働くかぎりあることだから。でも四六時中やむをえないというわけではない、はず。その時は「子どもを看るために休みます」といえるといい。どっちか、ではなく、どっちもだ、どっちも必要だと思う。
なんか、安易な共感の求め方はよくないかもしれないけど、いっそプリミティブにいいたい、自分の身になって考えてみてはどうか。自分が病気になった時にお荷物扱いされる覚悟はできているか。家族は仕事のため=社会のために、ふだんどおりに消えていくのでいいか。そういう社会でいいか。
教育学的に、それでいいか。
倫理的に、それでいいか。
では、ということでやっぱり子どものために母親は尽くす存在であるべきで、病気になるかもしれない子どもにそなえて、母は家で待つべきとかいわれると、それはそれで…。いっそプリミティブにいいたい、自分の身になって考えてみてはどうか。家族はあなたのため=社会のために、ふだんから家にいるのでいいか。そういう社会でいいか。それは別に母でなくたってかまわない、お父さん、あなたでもいい。
理想をいうのはタダだ、どうせタダなら、はっきりしっかりきっちり、いちど言葉に出してみるのがいい。そのことを忘れている人が多い。現実は大切だ。現実的思考は大切だ。だからリアリストの皆さんはそんなに不安がらなくていい、どっしりと構えて、タダの理想なんてものは、どうせタダなんだから、惜しみなくしゃべればいいのだ。そんなに抑圧をしなくていい。
私が言いたいのは、タダの理想です。家族が健康な時ははたらき、病気になれば気遣う。また元気になれば働く。それをしたい。休めない時には病児保育を使い、休める時には看病をする。それだけのことをしたい。生きている人たちみんながそのようにして働くことと生きることをできるようになればいい。タダだから言わせてください。そして、この理想がかなわない理由はなんなのか、そこを遮る「現実」って誰のためのものなのかを、教えてくれたら、もっとうれしい。

住まいを考える

3.11以降、というか…
昨今の「公務員たたき」の余波、というか…
アベノミクスの足音、というか…
いろいろな事情が重なって、
自分たちの住まいについて、考える機会を得ました。


とくにセレブ願望もないので、
「分相応の住まい」というのが望ましいわけですが、
この「分」ってなんだろうね、というところで、
しのぎ合い、つばぜり合い、
けっこう苦労するものなんですね。
すみません、今までイイカゲンに考えてきたので、
いまさら、感じ入ったりしているわけでございます。


「分」(1)をとりあえず現段階の貯蓄と収入とから出してみる。
実はイマドキ、ローンを組むのはウハウハに組めるらしい。
でもさ、そんなの実際には返せないじゃないですか??
ちゃんと返せそうに計算し直してもらい、「分」(2)を出す。
しかしうちらは、なにげに本をためこんでの商売だったりするので、
これでは足りない…
書庫や、作業をするスペースを加味しての「分」(3)を出す。
ううっ、場所をかなり変えなくてはならない…
通勤は遠くてもしかたない、通えれば、でも限度があるだろう、
というわけで「分」(4)を…
この、さまざまな「分」のバランスをどうするのか、
どの「分」に現状を合わせていくのか、
「あたしパートでもなんでもするから」「…っつか論文書きなよ?」みたいな
局所的なやりとりなどもしつつ。


「こっちも本腰入れるからさ、ちょっと業者さんにも勉強してもらってさ」
みたいな、
「勉強」せないかんのはどっちやねん、という言葉も飛び出したり。
業者さんに、イチからいろいろ教えていただいてるので。

社会運動のつくり方、について

いつもちょっと反応が遅い読書の記録です。

atプラス14

atプラス14

小熊英二+湯浅 誠「社会運動のつくり方──世界を自分で変えるには」
がおもしろかった。
市民運動にそれほど詳しいわけでもないけれども、
これまで経験はありません、ってこともない…
その程度の経験値である私が読むと、
湯浅さんの言ってることが、とても胸にしみるのだけど、
小熊さんは何をそんなに、突っかかっているのかと思うんだけど、
それに小熊さんの時代認識はちょっと古いと思うんだけど、
どうなんだろう?


対談のポイントの一つが「調整」という言葉の使い方だとして、
小熊さんは「調整」って政府エリートや圧力団体リーダーがやることで、
うちらの民主主義には関係ないんじゃ?っていうんだけど、
私には、湯浅さんのいう「対話」とか「合意形成」ってのがわかる、
というか、
「ダメなものはダメ!」にハッとした時代もあったし、
そういうニーズはいつだってあるんだけど、
「ダメなものはダメってのはもうダメ!」という気分も強くあって、
そこはやっぱり、
「どーしてダメなのか」「じゃどーすればいいのか」を、
しみじみねちねちと話し合うこと、すりあわせること、
面倒だけどやっていくしかないでしょうっていうのを、
これまでの社会運動も当然やってこられたかもしれないけど、
今しっかり言葉にすることが、大事なんじゃないかなあと思った。


いまちょうど、保護者会という「圧力団体」リーダーとして、
保育園に対して、やってます、「調整」。
いや違う、圧力なんてかけられないっす、売り手市場だし。
「対話」「合意形成」です。
そしてこれは、まぎれもなく「調整」だと思います。
むこう側(園)のいうことを、なるべく丁寧に理解しながら、
こっち側(保護者)のいうことも、伝える。
伝えながら、お互いに勉強をして思考を深めていく。
これすっごい面倒だけど、民主主義の基本だと。
実際、なかなかできてないんだけど。


あのさ…あとさ…
脱原発デモの時に、野田首相(当時)に会ったではないですか、
あれは小熊さん的な意味での「調整」なんでしょうか??


そうそう、「対話」といえば。
これもちょっと前の記事への反応ですみませんが、
リスクを決めるのは科学ではなく、社会だ ―― シンポジウム「みんなで決める安心のカタチ 〜 ポスト311の地産地消を目指して」
これがすごく良かったと思います。
考えさせられました。
目の前の野菜の放射線量がどうこう、という説明では、
どうしても納得のいかないものがある(あった)、
それは必ずしも不勉強なせいではなくて…
というより「勉強」のあり方を間違えている、お互いに。
「対話」にむけての姿勢こそが問われているのであって、
私たちはたえず、「対話」にむけて「勉強」をするべきなんだ。


考えさせられたひとつとして、
ふだん食に関心をもって「有機野菜」などを選んでいる人たちが、
高い割合で、東北や関東の野菜を避けて、
西日本産にいちはやく切り替えていった、
それで、自分の生産物について、長年育て方を工夫してきた、
いわゆる有機農家の人たちが、結局すごい打撃を受けたという話。
私も一時、地元産の野菜を扱う店から宅配を頼んでましたが、
やっぱり3.11後、3割お客さんが減ったそうです。
避難した人や、産地を切り替えた人が多くて。
それで、自分が避けるだけならまだしも、
こんな土地で野菜つくんのやめなよって言ってきたとか。
自分の行動が、勉強した結果としてとる行動が、
どういう影響を、誰に対して及ぼすかということも含めて、
考えないといけないんだね…。
でもこの場合、どうすればよかったのか?って正しい答えは出ない。
せめて、これまでのつながりを断ち切られるときに、
少しでも対話があるべきではなかったか。ってことだよね。
そっかー、私は結局留守の日が増えて、食材が余り気味になったので、
扱いをやめたんだけど…。理由をちゃんと言わなかったな…。


本も出てます。
すごいすごい勉強になりました。
ちょっと知識をもつと、えっへんな気持ちになって、
その知識を分け合ってない人との対話が面倒になり、
つい、主張を振りかざして大きい声を出したくなるけど、
もっと謙虚に生きたいと、すごい思いました。
みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年

みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年

古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』の読後感

古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』今さらですが図書館にあったので、読みました。
徹頭徹尾、人を小バカにしやがって感満載の言葉づかい…きらいじゃないです。
「そっかー、こんな国でも、若者は意外と幸福なんだね」という本、だけど、ではない。
感想は、大きく3つ。


1.確かに、個人が幸せに生きていけるならば、そこが日本だろうが、「かつて日本だった場所」だろうが、どうでもいい。
ただし、いつの間にか公用語が英語、みたいなのはたいへん困る。そういう意味じゃないんだ。植民地化されてもいいとか、そういうことではなくて。
その時、私はなんとかして「失われゆく言語の保存運動」に情熱を注いで生き延びたいと思う。


2.脱原発デモへの反応で、精神年齢が測れるかも!
9.11後のデモいっぱいやってた時(あれはそういえば、デモではなくパレードだった)と、脱原発デモ、分析しようと思う人たちの、受けとめ方がちょくちょくと違っているなあと思っていて、古市さんの本にも脱原発デモへのことが書かれていたので、仮説を立ててみたのですが。
・「お祭りのようなデモなんて、けしからん!」と言うのは、じいさんばあさん
・「お祭りでいいんだよ!新しい時代のデモだよ!」と言うのは、おっさんおばさん
・「お祭りみたいなデモで、本当に社会は変わるのだろうか」と言っちゃうのは、にいちゃんねえちゃん
みたいな…。
で、古市さんは、にいちゃんなんだね。
私はおばさんです。ちょっと屈折(若作り)してるから、デモそのもので社会が変わるとか思ってないけど、デモはお祭りでいいじゃんと思っている。お祭りを契機に、わいわいと声をあげればよいのではないか。沈黙しているよりはいいし、沈黙のふりをしてぼそぼそと陰口を叩いているよりはいいのであって。
って思うあたりがまさに、おばさんの感性だと自分で思う。必ずしも悪い意味ではない。おばさんになって、よかった。
ちなみに、ばあさんになることも、必ずしも悪い意味ではない。こうあるべきという信念も、大事だよ。というときも、ある…。


3.TRFをバカにすんなー。そんなさらりと、バカにすんなー。


絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち



≪補足≫
雑だったので、タイトルその他、ちょっとだけ手直ししました、20130119。

朝食問題と哲学の復活

保育園にお世話になっていると、
子育てについて、ときどきご指導いただくことがあります。
基本的な生活習慣についてなど。
しばらく前から、たびたび懇談会や園だよりでご指導いただくのは、
「朝ごはんをしっかり食べさせましょう」ということです。
しかも「パンと牛乳ではなく、ごはんと具だくさん味噌汁を!」と。
そして、朝に何を食べたかを、連絡帳に毎朝書くように指示されました。
しかし、うちの子は朝にコメを食べるのがイヤだと思っている。
パンならしっかり食べられる。
(本当はフルーツのみが好き…大西巨人さんの朝食が理想らしい)
コメがきらいなわけではなく、朝には食べる気がしないという。
お茶碗にむなしく残されるご飯…(ふりかけも無力なり)


こういう場合、適当に流しておけばいいじゃんというのが本音ですが、
(ここは行間…もともと自己解釈に寛容でない園なんだとご理解ください)
連絡帳に質問を書く。しょうもない質問です。
「うちの子は朝、ご飯を食べたくないといい、パンならしっかり食べるんですが、
ならば毎朝、パンをしっかり食べさせた方がいいんでしょうか」
返答がない。「みました」のハンコが、ぺんっと押してあるのみ。


しかし、そもそもなぜ、「朝ごはんを食べさせろ」と何度も言われ、
「朝にはコメを食べろ」と食材指定までされなくちゃいかんのか。
きっと「早ね早おき朝ごはん」キャンペーンのせいだと思う…。
保育園ユーザーの多く(当社調べ、約10人のママ友さんたち)にとって、
このキャンペーンが全体的にもたらすプレッシャーは計り知れず、
(6歳にもなって昼寝してきたら、夜10時には寝ないだろうがっ、とか)
さらに農林水産省「めざましごはん」キャンペーンで、
朝はコメを食べなさいって。
なんというか、その、科学的な情報を付け加えているけれども、
政治的な意図だってみえみえかくれ、するではないですか。
いいんですよ、私、コメ好きだし、日本の農家の方たちを尊敬しているし。
でもね。だからってね。ウチの子の朝食くらい、どうだっていいでしょう?


だいたい「朝食を毎日食べる児童生徒の方が、学力が高い」という話は、
付随するいろんな要素をぶちきった、ちゃんちゃら情報操作だろうがよ、と思っており、
それが、先日読んだ『もうダマされないための「科学」講義』の
第1章にも書かれていて、
そーだよそーだよと完全同意したわけなんです。
でも「付随するいろんな要素」をときほぐすための手立ての1つとして、
「朝の食事も大切にしようね」っていうやり方はアリかなと思うので、
全否定をするつもりもなかったのですが…。
でもね。だからってね。ウチの子の朝食、何を食べるかくらい、
どうだっていいでしょうが??


私が、保育園ママ生活で得た格言の1つが、
「哲学が消えて、ルールが残る」というものですが、
ここにもまた、その格言の事例をみるわけです。
ママ友さんのひとりが、しばらく苦心しておにぎりを食べさせていたけど、
どーっしても子どもが折れないので、
もう開き直って毎朝「パン」と連絡帳にも書くことにしたそうです。
私も、じぶんの哲学を復活させようと思いました。
主食の自由、これを侵すことはできないはずなりー。
適当にパンやご飯をとりまぜていくわよ。
…「哲学」にしては当たり前すぎる結論でした。

あけました

明けましておめでとうございます。
すっかりご無沙汰がちでした。
昨年は、Facebookに時々出没しました。
日々の軽いことはFBに、ちゃんと書きたいときは「はてな」に、
と思っていたら、
結果、FBにばっかり書いてました。
昨年は、ちゃんと文章を書けなかったのですが、
書きたかったことを、
いつか書こうね、できれば今年のうちに、ということを、
列挙して、
新年の抱負にかえさせていただきます。
・他人事ではない「出生前診断
・他人事ではない「開沼さん的『当事者性』論」
・他人事ではない「科学的なものの危機」
・他人事ではない「専門性の存在意義」
・他人事ではない「あのさ、歴史学ってどうなるんだろうね話」
・他人事だけど「大河ドラマ平清盛』論」
・自分事でしかない「三浦大知のピークはどこか論」
今年もよろしくお願いいたします。