まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

まなびのこと

教えてーと書いた後、教わっておきながら、フォローをしなかった。ごめんなさい。
もともと下の記事を書いたのは、1週間前の昼休みに、これが目にとまったから。

学校は一人ひとりの学ぶ権利を保障し、一人ひとりの学びの可能性を開き、所定の条件のもとでもっとも高いレベルの学びを実現することに責任を負っています。さらに学校は、競争と差別を克服し平等で民主主義的な社会を実現するという公共的使命を担っています。「サービス」と「営利」ではなく「責任」と「使命」に基礎をおいているのです。
佐藤学『習熟度別指導の何が問題か』岩波ブックレット、2004年、56ページ)

そうだよなあと思って。
教育基本法が、法ごときが(「ごとき」と敢えて言わせてもらう)
変えられたとしても、
この「責任」と「使命」は、変わらないはずだ。変えてはいけません。
ということを思って、
「応ずる」だろうが「応じた」だろうがここは変えてはいけません、
ということを言いたくって、
なので、この言葉の違いにあえてこだわっていた理由を、
いっぺん確認しておきたかった、というわけ。


annntonioさんにこっそり教えてもらったことをふまえると、
問題は、「能力」ってなんですか、ということで、
能力ってカネも含みますか、まさか含みませんよね、
という話で。
(家の経済的能力。バイトと学業を両立させる能力。
 将来就職して学資金を返しきる能力。…)


もしも、金持ちの家に生まれ育つのも能力なんだとしたら、
なんとまあ前世からの因業さえもが問われるという、
もしいまビンボーでも実直に生きればよろしいよ、
きっと来世は金持ちの家に生まれることができるから…みたいな、
三浦朱門のセリフ応用編みたいな話になっちゃうよね。


愛国心よりなによりも、ここらへんが復古だと思う。
しかもどう考えても見苦しい復古だ。