まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

n地域論

 板垣雄三さんのシンポジウムを聞いて、というよりは、それ以前にやった読書会などで思っていたことなのだけれども。
 「組み換え自在の地域」とか自由に伸び縮みするn地域とか言われて、私たちが即座にイメージするのは、どんなことだろうか。グローバリゼーションの中で自在に世界を飛び回り、もっと自由な場所へ、もっと豊かな場所へ、もっと実りある場所へ、と移動しつつ、ネットワークをはりめぐらし、情報を得て、また移動する、そういうことだろうか。
 板垣さんのn地域論は、強者の論理なんじゃないか、という話題が出たのだ。選べるひとはいい、的確に選べるには、ある程度の財力、能力、必要になってくる。これを備えているひとはいい、けれども、多くの私たち、弱い私たちには、そんなものありゃしない。選び損ねた時のこと、選べないものの多さ、そこらへんどうしてくれんのかと。
 お気楽じゃないかという話も出た。私たちは、そんなに簡単に、村落共同体の縛りから抜け出せる位置にはいない。選ぶ私をおしとどめる力、それに注目しなければならないのではないかと。


 読書会のときに、ふっと思ってリキんで語ってしまったのであるが。
 私たちが読むから、強者の論理、お気楽論にみえるのだ。私たちの多くは、地域に縛られていたとしても、それによって死んだりはしない。絶望も(たいして)しない。移動して豊かになることもできるし、とどまってソコソコ生きていくこともできる。この状況で、もっともっと豊かに、もっともっと自由を、と言い出して飛び出すには、ちょっと思い切りが必要。それは確かに、強者だからこそできることかもしれない。そして思い描く浮遊は、とても気楽だ。
 しかし、板垣さんのお話の土台にアラブ、イスラム、もっと端的にいえばパレスチナがあることを、意識すれば、コトはそんなにお気楽ではない。縛る地域は、もっと恐ろしい。というか、私たちの想像を超える形で、「それは存在しない」。でもひとは、生きなければならない。ひとりでは生きられない。とすれば、n地域を「選び取る」しかないんじゃないのか。お気楽どころではない、生きていくための、ぎりぎりの選択ではないのだろうか。


 西洋中心主義を批判したくて、ずっと研究をしてきたんだ、と板垣さんは言っていた。私たちは、簡単に「地域論」を、私たちの文脈に押し込めて読んではいけない。地域には個体性がある。同様に、地域論にも個体性があるのだ。


 なんてことを、思いましたの。


 じつは、忙しさに言い訳つけて、『前夜』を前期12号まで予約購入しておきながら、ほとんど読んでいなかったのである。もう、誰か知り合いにあげちゃおうかと思って、告知寸前状態だったのである。でも、告知やめた。しばらく読んでみようと思う。


 急いで書いたので言葉足らずだと思うけど、不用意にアップする。ご批判は、ソフトにお願いします。