まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

待つこと

だいぶ以前に、「待つこと」をどうこう書いたことがあります。
それ以来気にしていて、ようやく読んだものから。

 待たずに待つこと。待つじぶんを鎮め、待つことじたいを抑えること。待っていると意識することなくじっと待つということ。これは、ある断念と引き換えにかろうじて手に入れる〈待つ〉である。とりあえずいまはあきらめる、もう期待しない、じりじり心待ちにすることはしない、心の隅っこでまだ待っているらしいこともすっかり忘れる。ここでなおじたばたしたりしたら、事態はきっと余計に拗れるから。
 ひょっとしたら、「育児」というのはそういういとなみなのかもしれない。ひたすら待たずに待つこと、待っているということも忘れて待つこと、いつかわかってくれるということも願わず待つこと、いつか待たれていたと気づかれることも期待せずに待つこと……。
    (鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書、2006年、55ページ)

ちょっとわかる。かなりわかる。
っつうか、本の中で、ここだけが、じんっとわかった。
あとは、ふーんとわかったり、へーえとわからなかったり。ゴドーを待ったり武蔵を待ったり、みんなけっこう待っているんだなあ。


それで、わかるけど、最近るらこうを見ていてひしひしと思うことは、「それでもこどもは、待たれていることを知っているにちがいない」ということだ。少なくともある時期からは。待つ視線を感じて、受けとめている。そして、リアクションさえしている。
短期的に、たとえば朝、出かける用意を早くしなさいよっという話だけじゃなくて。もっと長期的に、待つ視線。
そして、そのリアクションの気配を感じるからこそ、こっちだって、そんなに簡単に、待っていることを忘れることなんかできない。
「〈待つ〉以前の〈待つ〉」だと鷲田さんは言っているけど、やっぱりどうしたって〈待つ〉はしゃしゃり出てくる。少なくとも私には、たいへんむずかしい。
そんなわけで今日も私は、どとうのようにあふれ出る〈待つ〉を抱えている。こんな、〈待つ〉を抱えてこの先を生きていこうという決意もまた、ある断念と引き換えにかろうじて手に入れるものであーる。ずっと期待している。じりじり心待ちにしている。それでいて、じたばたはしない。…となれば、カッコいいですけどねぇ。実際はじたばたの日々であーる。