まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

センスを問われる

私は自分で、エゴコロ(絵心)とウタゴコロ(歌心)が致命的にないと思っているので、
こむろさんすき〜とか、AAAかっけーとか、大知さんやばすぐるーとか言っても、
それがどれくらいセンスの良いことなのかは、自信がない。
ただ身近なひと、たとえばダンナにはかなりのセンスがあると認めているので、
「あなたはいつも、なかなかいい感覚で選んでくるよね」なんて言われると、
けっこう自信度アップしたりして、
「でしょー。いいよね、ほれるよね、大知くん」
「いや、僕はそれほどでも」
「え、…」
みたいな。


最近ちょっと思うところがあって、先行研究などを読みあさっているのですが、
研究こそ、いかんともしがたく、センスが問われるのだなあと…。
それで私は自分で、研究についてもセンスがないと思う時があって、
(逆にたまに、自分のセンスにほれぼれすることもある。振れがはげしい)
マナビゴコロ(学心)というかね、キワメゴコロ(究心)というかね。
必要なことは、自分より能力の高い人たちによってすべてされてんじゃん、みたいな、
あーーーここちわるい。
そんな中にも、しょうもない(ごめん)論文とかあるでしょう、
そんなこと、どうでもええやんみたいな。
そういうのを見てしまって、複雑な気持ちになる、その複雑さの要素の中に、
ある種の慰めみたいなのが確実に混じっている、
それがまたいや。ここちわるい。


『教育学研究』の2005年12月、「義務教育の危機」特集を読んだ?と師匠に聞かれて、
読みました読みました、と返答したけれど、
読み返してみて、なにひとつ大事なことはつかみとれていなかったことを実感。
もういっぺん読む。砂の1粒ぶんくらいは、つかんで身につけることができるように。