まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

向き合うことの大切さ

異論反論の表し方について考えています、
前に書いたけれど、私はここ(はてなだいあり)を始めるにあたって、
特定の相手の悪口は書かないと決めました、
特定の相手への批判は、相手に直接言えることだけを書くことにしました、
とゆうことは、メールで書けばよいので、不要だと気づきました、
不特定の相手の悪口は…批判と紙一重だと思いました、
批判は重要だと思うけれど、それを文字にしたときに、悪口みたいになる、
それでたとえば、心当たりあるなと感じたひとが(私にその意図がなくても)
悪口言ってるんじゃないか、みたいになるのがいやでした、
むやみにひとを、傷つけたくない、という気持ちを大事にしました、
でもそのことのウラハラを、いま感じていて、
結局傷つけたくないと思っても傷つくときにひとは傷つくし、
そこで黙ることが、批判の抑圧になるのだとしたら、どうだろう、
みたいなことを思い、
…もう少し具体的に書きます、
だいぶ前だけど、遠まわしに批判を言われる側になりました、
名指しじゃないけど私のことだったみたいで、いやみな書き方で、
(しかもひどい誤読だったので)
ぷんすかして、でもなるべく感情があらわにならないように、
オブラートに包みまくりでちょっとだけ、ついったに書きました、
このプロセスで、すっかり、ついったが嫌いになってしまいました、
(字数制限あり、表現自粛ありで息苦しいと思った)
それでも相手にはきっと通じたみたいで(わからないけど)、
直接きちんと意見の対決をしないままで物別れになりました、
(連絡がこないから、きっとそうなんだろう)
心残りかというとそうでもない、
でも自分の表現のしかたとか感情については、心残りがあり、
傷つけないようにと思っても、ひとは傷つくときには傷つくし、
私だってひとの思いがけないところで傷ついてんだし、
しょうがないよちょっとやそっと傷つけても、治癒して生きていくしかないんだ、
でも、ちょっとやそっとだけの傷つけ方(致命的じゃない)を、
おぼえるには、やっぱり人と向き合わなくてはいけない、
批判すること・されることに向き合わなくてはいけない、
それがコミュニケーションてやつじゃないか、と思います、
きちんと誠意をもって向き合えば、意見が対立したって、
すき・きらいはそんなに簡単にくつがえるものじゃないと、
この歳にしてようやくわかってきたわけです、
ということで、その具体的な相手に対しては、
結局、直接向き合うことを避けられ文句つけられて、別れたわけだから、
それはもうそれだけの関係だったんだね、ということにしても、
そうゆう、へんに心残りのある物別れを、するのはもういやだなあと思いました、
これが、リテラシーがどうのこうのという以前に私がずっと気にかけていた、
コミュニケーションについて考えてきたことの、いちおうの決着、
なーんだこんなことか、という気がしないでもないけれど、
人間っていつも、なーんだこんなこと、で苦悩するイキモノなんじゃね?と思う、
。。。というわけで、きゃー、部屋のおそうじしなくっちゃ。