まりにっき

まりにっき、お引っ越し。

16日のいも掘りニュースをもとに、インスパイアされたことをいくつか。じっくり書く時間はないから、ともかく断片を残す。


○待つことについて
某朝番組でバードさんが、このニュースを伝えた後、この代執行の日にちは4月時点で決まっていたこと、遅らせると工事着手が遅れ、10億円以上の損失が出ること、を補足説明していた。だから、待たないことには正当な理由があるんだということで、視聴者の判断にゆだねていた。(用意された倫理的答えに向けてまっすぐ歩かせる、小学校の道徳の授業みたいでいやだなあ)
時間の論理と金の論理に支配されている。これが社会であるというなら、そうなんだろう。しかし、そんなことであっさりと、「待つ」ことを放棄していいんだろうか?子どものあゆみ、そこに関わるひとつのできごとの生成を「待つ」ことが、そんな金勘定に置き換えられていいのか?
実はこないだ、とある学会のラウンドテーブルに参加して、これがものすごくおもしろい場所で、私はいろいろとインスパイアされたんだけど(引退している場合ではないと思った)、そこで思ったのが、思いが醸成され、言葉になってゆくプロセスを「待つ」ことが、いかに大事で、にもかかわらずいかに日常において不十分に放置されてきているか、ということだった。
教育について考え、ものを言い、行動をするにあたって、徹底的に「待つ」姿勢をとらなければいけないんじゃないだろーか。…これが、教育学研究に身を置いてきたわりに稚拙なんだけど、私の最近強く思うことなんである。


×じつは待てていない
と、いう私本人は、すでに2歳児の行動を十分に待てていないような気がする…。はやくしなさい、はやくたべなさい、なにがいいたいの、ごめんっていいなさい、とかね。どわー。反省じゃー。


○子どもに見せることについて
もういっこ、散見される意見として(私がぱーっとチラ見してただけで、きちんと論じている方もおられよう…許してっ)、「あのよーな場面を、子どもにわざわざ見せるとは」というのがあったのだけど、ちょっと気になって、え、わざわざ見せたらだめなのですか?
だってね、これが社会であるというなら、幼くってもちゃんと説明して見せてやるべきだと思うし、見せられないようなことは、やっぱりやっちゃダメなんじゃないでしょうか。必要悪?違うよね。理念的にすぎると言われるかもしれませんが、この場合の現実論ってなんでしょうか。


×はは、都合の悪いことは隠すのじゃ
と、いう私本人は、子どもに隠れてチョコ食べるけどね。ははは。


×子どもに見せたくない番組
私だって子どもに全部見せるわけではないなと思ったのは、最近ダンナ実家でコドモたちが「ブラッディマンデイ」を見ていて、るらくんもその場にいたんだけど、こわーい場面になった時に、思わずるらくんの目をふさいでそのまま退散してしまった。あれ8時台にやるかーとか思ったけど、これってものすごいふつうのおばさんの反応だよね。はははは。
でも、私はふだんドラマをぜんぜん見ないので、偶然みたあの場面はものすごいこわかった。展開早くて全然筋がわかんないし。なのに(だから)気になって、HPであらすじを調べようと思ったら…わかんねえ。こわさだけが残る。ゆ、夢に出る。


なんか話がそれてきた…とりあえずおしまい。